 |
サイパンの歴史  |
≪サイパン≫の
はじまり |
恐竜たちがすでに絶滅し、植物や魚が登場し山々が隆起を始めた頃、マリアナ列島もその形を成し始めました。人類の誕生はそれより5,000万年も後の出来事です。現在チャモロと呼ばれているサイパンの住民たちは、紀元前3,000年ごろインドネシアからカヌーに乗ってやってきたと言われています。
今日タガストーンやラッテストーンと呼ばれている遺跡に見られるように、当時のチャモロ人たちは優れた建築法を持っていたと言われています。
後の多くの戦争に巻き込まれた歴史からその技術は徐々に失われ、現在では本当の事を知るすべも無く神秘に包まれています。一番有名な遺跡はテニアン島のタガストーンです。 |
| 名前の由来 |
1521年フェルディナンド・マゼランがグアムを発見しました。当時地中海で乗られている船と同じ形の三角形の帆を使っているチャモロ人のカヌーをみて、マゼランはこの島を「Latine
Sails の島」と命名しました。
その後、スペイン人が上陸した事に反発したチャモロ人はマゼランの船から略奪を繰り返し、それに対してマゼランは「泥棒の島」と名前を変えました。その後長い間地図上にはこの名前で掲載されていました。
三度目の正直でスペイン皇帝4世フィリップの妻であるオーストリアのお姫様「マリアナ」の名前にちなんで「マリアナ諸島」と改名されました。そして現在にいたっています。 |
| 侵略の歴史 |
スペイン
人類がマリアナ列島に流れ着いていらい、チャモロ人たちは漁業と島の豊富な果物で、平和に暮らしていました。ところがスペイン人マゼランがマリアナ列島に上陸してから、サイパンも多くの人種から幾度も侵略を受け、チャモロ人たちは激減してしまいました。現在では少数民族として保護を受けています。
1600年代後半、マゼランがマリアナ諸島を発見してスペイン領土を宣言した後、この地は貿易の拠点となり多くのスペイン人たちが入植してきました。もともと陽気な気質のチャモロ人たちは、最初抵抗無く彼らを受け入れましたが、キリストの布教が始まるとその様子は一変しました。
気ままでのんきに暮らしていた彼らに、多くの戒律をもつキリスト教があうはずもありません。チャモロ人たちは激しい抵抗を始めました。宣教師殺害という事件にまで発展し、ついにはスペイン軍が事態を鎮圧するに至りました。その戦闘でチャモロ人は50分の1にまで減少してしまいました。
当時の抵抗の一つとして略奪を行った事が、泥棒島の由来とされています。 生き残ったほとんどのチャモロ人は以降100年間グアムに移住させられました。逃れた一部は、ロタ島に隠れ住みました。
1800年代初期、東カロリン諸島のトラック(チューク)からサイパンへ集団移動がありました。原住民をカロリニアンといいます。このカロリニアンたちの航海に対する探求心は他の船乗り同様深いものがあり、彼らが発見した星の海図は現代でも広く用いられています。
ドイツ
1800年代も終わろうとしていた年、サイパン周辺の島々はグアムを省いてスペインからドイツに売却されました。
日本
1900年代に入ると第一次世界大戦が終結するほんの短い期間ですが日本はアメリカ合衆国、大英帝国、フランスと同盟を結び、太平洋統治機関としての称号を得ました。
第一次世界大戦終結と共に国際連盟の元でマリアナ諸島は日本の委任統治領となりました。
事実上マリアナ諸島が日本に併合された後、1935年に日本は国際連盟を脱退しました。
当時の産業は製糖と漁業でした。人口はサイパンで約3000人だったのが、日本からの入植もすすみ約24000人にも増えました。第二次世界大戦の暗雲が立ち込め始めた頃、日本軍人だ けで約30000人いたと言われています。
アメリカ
1944年6月15日にアメリカの猛攻撃をうけ、ビーチの砂浜や山岳では歴史に残る激しい戦いが繰り広げられました。この攻撃を受け、30000人いた日本兵は1000人だけが生き残ったと言われています。非戦闘員10000人もほぼ全滅でした。
7月にはアメリカが周辺諸島の支配権を握り、翌年にはテニアンから広島へ向けて原爆を積んだB-29「エノラ・ゲイ」が飛び立ちました。
日本の敗北によりサイパンはアメリカの信託統治領となりました。1986年にサイパンを含む北マリアナ諸島は、アメリカの自治領となり、現在に至っています。 |